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芥川龍之介 『杜子春』を読んで

蜘蛛の糸・杜子春 (新潮文庫)

蜘蛛の糸・杜子春 (新潮文庫)

あらすじ

唐王朝の洛陽の都。西門の下に杜子春という若者が一人佇んでいた。彼は金持ちの息子だったが、親の遺産で遊び暮らして散財し、今は乞食同然になっていた。
そんな彼を哀れんだ片眼すがめ(斜視)の不思議な老人が、「この場所を掘る様に」と杜子春に言い含める。その場所からは荷車一輌分の黄金が掘り出され、たちまち杜子春は大富豪になる。しかし財産を浪費するうちに、3年後には一文無しになってしまうが、杜子春はまた西門の下で老人に出会っては黄金を掘り出し、再び大金持ちになっても遊び暮らして蕩尽する。
3度目、西門の下に来た杜子春の心境には変化があった。金持ちの自分は周囲からちやほやされるが、一文無しになれば手を返したように冷たくあしらわれる。人間というものに愛想を尽かした杜子春は老人が仙人であることを見破り、仙術を教えてほしいと懇願する。そこで老人は自分が鉄冠子(小説『三国志演義』などに登場する左慈の号)という仙人であることを明かし、自分の住むという峨眉山へ連れて行く。
峨眉山の頂上に一人残された杜子春は試練を受ける。鉄冠子が帰ってくるまで、何があっても口をきいてはならないのというのだ。虎や大蛇に襲われても、彼の姿を怪しんだ神に突き殺されても、地獄に落ちて責め苦を加えられても、杜子春は一言も言わない。怒った閻魔大王は、畜生道に落ちた杜子春の両親を連れて来させると、彼の前で鬼たちにめった打ちにさせる。無言を貫いていた杜子春だったが、苦しみながらも杜子春を思う母親の心を知り、耐え切れず「お母さん!」と一声、叫んでしまった。
叫ぶと同時に杜子春は現実に戻される。洛陽の門の下、春の日暮れ、すべては仙人が見せていた幻だった。これからは人間らしい暮らしをすると言う杜子春に、仙人は泰山の麓にある一軒の家と畑を与えて去っていった。

杜子春 - Wikipedia

上記はあらすじというか、ストーリーすべてが書かれいる。


以下、『杜子春』を読んだ感想

最初は、お金があるときにはいろいろな人間が近寄ってくるが、お金がなくなれば彼らは近寄って来なくなる。「金の切れ目が縁の切れ目」というよな話だと思いながら読んでいた。
杜子春は人間は愛想を尽かすダメなだから仙人になろうと考える。このあたりから!?と疑問を持ち始める(なぜ仙人になろうとするし、というより仙人って人間からジョブチェンジのようになれるのか?まあ仙人はなにかしらのメタファーと考えるべきだろう)。
そして、杜子春は仙人になる訓練をする。その訓練とは何があっても声を出してはいけないという訓練だ。その訓練は最後、地獄で苦しみを受けている母親を見て声を出してしまうことによって、最後まで終えることはできなかった。
仙人は杜子春に対して、「お前が声を出していなかったら殺していた。お前はこれからどのようにするのか」と問う。それに対して杜子春は『何になっても、人間らしい、正直な暮らしをするつもりです』と答える。
しかし、杜子春は最初、人間は金持ってないと愛想をつかされるし、人間に絶望していたはず。なのに杜子春は人間らしい正直な暮らしをすると言う。これでは最初に人間を否定していたのに、そのような人間になると高々と杜子春が宣言をするのは矛盾が生じる。
金の切れ目に離れていった人は人間と思っていないのかもしれない。または、自分にもそのような側面があることに気づいたのかもしれない。いろいろと矛盾を解消する議論はあるだろうが、もう少し芥川龍之介について知った上でもう一度読む必要がありそうだ。

ちなみにこの本には他にも『蜘蛛の糸』や『トロッコ』など短編が収録されているんのでとても満足度が高い本となっている。

蜘蛛の糸・杜子春 (新潮文庫)

蜘蛛の糸・杜子春 (新潮文庫)